飲食店にもその傾向はみられる。
ガイドブックや有名人が紹介すれば、そこに客が集中して予約が数ヶ月待ちなどというクレイジーな状況が発生する。
ワインだって有名批評家の「ポイント」によって市場価格が変動するというからまったくもってギャグかコントの世界である。
飲食なんて特に嗜好の差が出るものだ。「アノ人が言っているから」といって自分が本当に旨いと思うかどうかは分からない。もちろん、自分に合えばそれはそれで良いが、無理をして「美味しいと思い込む」人は多いのではなかろうか。
俺も先日、非常に高価なワインを頂いたのだが、正直言えば、自腹じゃ絶対に飲まないな、と思う。
もちろん良いワインには違いない・・・が、要は「合うか合わぬか」であり「価格」は価値じゃない。
「アンタは本当に良いものを知らないだけ」と言われることもある。
そう、それも正しい・・・しかし「何をもって良いものと決めるか」は個人差があって当然だ。
一本¥1000のワインでも、それで幸せになれるなら、無理に背伸びをして「一級シャトー」なんか飲んで複雑な心境になるよりはマシだろう。
なので、メディアに騙されている人々は多いだろうが、それで楽しいと思うなら他人がとやかく言う必要もない。しかしそれは「個人」ならそれでもいいが、企業とか団体になると洒落にならない。
「居酒屋」というのは「オトナがしみじみ飲む店」だったはずなのだが、今は「アミューズメントパーク」のように
「居酒屋巡り」が流行っている・・・ましてや人気店には行列までできる始末・・・なんだかなぁ。
「客層」が変わったのはもちろん「グルメブーム」および「ネット普及」の影響だろう。
この手の客層で困るのは居酒屋でも「レストランのサービス」を要求することである。
「(自分が)酒を飲みに行く」という動機から「(自分を)楽しませてくれなきゃイヤ!」という接客を要求するので
無愛想に扱われると「逆上」して「最悪だ!」とネットに書込む。ガキがゴネているようなもんだな。
まぁもちろん中には現実に「そりゃねぇだろ」という店もあるだろうが、おおよそ、そういうケースの場合、店は
いつものように酒とツマミを提供しているだけでファストフードのような「営業スマイル」なんぞ考えていない。
食事も一緒で、繊細な味覚は日本人の優れた面であるのは確かだが、それが神経質になると面倒臭い。
本来「提供する側」が神経を使うのは、客に楽しんでもらう為である。
難しい技術や手間を、客が感じてしまうようでは本当に旨いものとは言えないだろう。
反対に客がいちいち「分析」するような食い方をすれば、それはもう「食事」でなく「試食」である。
そういう機会なら、それでもいいのだろうが、「食事」をする時に分析しながら食うというのは楽しくない。
旨いか不味いか・・・感覚で判断し、後で印象を整理して記憶に残るものだと思う。
ワインも一緒で、いつもブラインド状態のように分析(当てっこゲームと言ってもいいが:笑)する。
自分にとって旨いか不味いかでなく、とにかく「正解したい」のである。
そして有名なものだと、自分の嗜好に反しても無理やり良さを探そうとする。
不満があっても「文句は言うが、さっさと諦めて自分の愉しみ方を見つける」方が精神的に楽である。
そして多少の難があろうと、全体を通して最後に「楽しかった」と感じるならば、それは「良い選択」だったのだ。
ディテールも非常に大切だが「大局」を見るのも同時に欠かせない行為である。
大雑把が良いという訳でない。何事も注意深く、しかしことさら執着はしない・・・というスタンスが必要なのだ。
先日、いつも行く旨い「とんかつ屋」に行ったら、その日はとても肉の状態が悪く旨くなかった。
「いつもと違う!同じ金払ってるんだバカヤロー!」と、俺も若い頃なら怒っていたが
肉だって「生き物」であり、時によって状態が違うのは当然である・・・と納得した。
しかし厳しい人なら「それだってプロなら納得のいくものでなければ客に出してはいけない」と言うだろう。
しかしだ、じゃ本当に「今日の営業は止めろ」と客が言っていいものだろうか?
商売で生計を立てている店に「無収入を我慢しろ」と言っているようなもんである。
それは「商売」じゃない。「求道」である。
では客は「求道者」だろうか?・・・中には存在するかもしれないが、今日はフレンチ♪明日はお寿司♪なんて
単なる「食べ歩き」が高じてウルサイ事を言っているだけの「お気楽グルメ」がほとんどだ。俺だってそうだ(笑)
ならば、多少気に入らない事があっても、その店が本当に好きなら「許してやろう」という気になるもんだ。
親しくなれば助言できる関係になるかもしれない。
あっちの店、こっちの店を食い散らかして、気に入らないからと文句を言うのは、非常につまらない。
文句はきちんと「批評」になっていないといけないだろう。もしくは仲間内で吐き出せばいい。
「客が店を育てる」と言われるが、今は自分勝手な客が単に「食い散らかしている」だけである。
だから店も「消費」されてしまうのだ。
特別旨い!なんて店は必要だが、日常の「普通な店」もちゃんと存在して欲しい。
むしろ、そんなに食に拘らないような客なら、「日常の店」を支えて上げてほしいものである。
評判店で何ヶ月先の予約なんかするより、近所(通える距離)の店に定期的に通ったほうが
食生活は「豊か」だと思う。
無能の人々
余生、と言うと、世に何事かを成し、名を遂げた後の、余りの生、の認識が一般ですが、それは、経済偏重による視点です。
生まれ落ちた時から以降、死ぬまでの間の時間が、すべて余生であり、生まれた瞬間から、誰もがもれなく死出への旅に参加している訳です。こんな分かり切った事も、はからずも甲斐性があって蓄財し執着すると、少しでも長く生へ留まりたい気持ちになって、富と名声を奪い去る死を、理不尽なものと思うようになります。すべからく経済の世、風の流れぬ里となって久しい今では、長生きと健康は、何にも優先するのが社会の常識となっています。
生まれた以上は、老いも病も死も、席に着けば順繰りに出て来る、おまかせコース・メニューで、以前はただ、もくもくと食せば良かったのですが、近頃は、うまいだのまずいだのあまいだのからいだの、なにか一言いわなければ、格好が悪いような気になっています。揚げ句、メイン・ディッシュを三皿ほしい、デザートはふんだんに、にんじんとピーマンは入れないでと、「おまかせ」の書き換えさえ要求します。そんな我がままを言う位なら、初めからこのレストランに入らなきゃ良い、生まれて来なけりゃ良かったのに、と思います。「いつまでも若々しく健康で、より良い人生を長く生きよう」という思想は、少なくとも、放蕩の人、風流の人にはなかった筈です。「年相応に老け衰えつつ、それなりの人生を死ぬまで生きる」という当たり前の事が、遠くなりました
無能の人々の目を通して、私達は束の間、懐かしい等身大の自分の「余生」に、きっと対面する事が出来るでしょう。
-以上、ちくま文庫・杉浦日向子著「うつくしく、やさしく、おろかなり「私の惚れた江戸」」より抜粋-
それにしても日向子女史の享年四十六歳は早すぎる、この「無能の人々」をガロ誌に発表したのが1991年12月、難病により引退宣言をしたのが1993年・・・。執筆していた段階で予見はあったのかと想像すると実に切ない
作品の内容は、震災原発でも目に見えては、変わりませんし、変われません。
個人的には、変わっても良いし、変わらなくても良いし、良い作品を作れる方を選ぶべきと考えています。
構成は
江戸の粋と遊び
江戸のくらし
江戸の食事情
の三部構成で、それぞれ江戸の暮らしを描いてある。
全体に、該博な江戸時代の知識をそこかしこに散らしながら、けして嫌みになっていないのが、この人の人柄なのだろう。
例えば、「無能の人々」のくだりでは
無能の人は太泰平の逸民です。上下がひっくり返る、大掃除の動乱の世には、どこかに取り紛れて見失っているものの、世の中が静まり落ち着いて来ると、いつの間にか、隅っこの方に溜まっている、泰平のほこりともいえます。・・・江戸時代の泰平は、その六倍を超える、二六〇年ですから、当然その分、カスの出た量も多かったようです。
といったあたりや
実用外の贅沢、すなわち、「無用の贅」こそが粋の本質です。
無用の贅。日常生活に少しも必要でない暇潰しと、何の役にも立たない座興におぼれてひたすら消費する、これが粋な人の生き方です
といったへんは、「江戸」というものを読み解くキーワードである「粋」を見事に教えてくれるし、
大都市である江戸が二百五十年間の泰平を保つことができた価値観を示すキーワードは「持たず」、「急がず」、この二つの言葉だけです。
「持たず」には二つの意味があります。一つは物を持たない。・・・もう一つの持たないはコンプレックスです。
・・・自分は自分という自信を持って日々を暮らせば、せちがらくない。・・・次の「急がず」、これも二つあります。一つの急がずは、仕事を急がない。・・・急げば三日早く仕上がる仕事は、逆に三日延ばして丁寧にやる、こういう気持ちが職人のプライドであり、誇りなんですね。もうひとつは人づきあいです。諸国の吹きだまりである寄り合い所帯の江戸では、人とのつきあいを、細やかに手を抜かず、急がずやっていかないと、支え合ってこそ成り立つ共同体の中でつまはじみになってしまう(江戸のくらしとみち)
といったところでは、江戸時代の寄り添いながら、平和に生きる術を垣間見せてくれるし、
「お江戸の妖怪めぐり」の
江戸は、妖怪と人間が常に渾然一体になっていた
橋の上っていうのは、本来無いところに道を通した、非現実の空間なんです。また、彼岸と此岸を結ぶっていうのは、あの世とこの世を結ぶっていう意識ともつながりますから、生死の境界線をつなぐっていう、日常とかけ離れた空間になる。特に水面から高い高橋が出やすいんです。
といったあたりは、筆者のコミックの一場面を思いださせる。(どんな作品の、どんなところかは、各人で探してみてね)
つまり、そいつらは「酒の飲み方」を誰にも教えてもらっていないから、「知らない」のであろう。
要はオツムは子供のまま、歳だけは大人になってしまったのだ。
金を払えば自分勝手に楽しめるという、幼稚な発想である。
昔なら親や先輩、そして店からも「酒の飲み方」を教えてもらったものだ。
そうやって経験を積んで、また後輩に教えていく・・・
ところが今はそんな関係は消滅し、「金を払う客が一番、何をやってもいい」という我がままが、
まかり通る時代である。
カレー料理人さま
ご訪問&コメントありがとうございます。いつもご覧いただきましてありがとうございます。
ご質問の件ですが、インドカレールールブックみたいなものがあるわけではないので、おいしければなんでもアリなんではないでしょうか?<それを言ったらみもフタもないですかね…。
少なくとも私のお店でご提供しております、トマトベースのカレーにはカスリメティを使っております。
私個人にとっては、トマトベースとほうれん草=カスリメティという式が成立しています。
ご質問の真意は、それがインド料理全般として常識なのか?という点だと思いますが、私は常識だと思っています。
しかしながら、日本の比較的ディープなインドカレーに関する番組などでも「それはあり得ないだろ」という解説もあったりするのですよ。インド人もびっくりですよ。(笑)インドも広い国ですし、誰が正しいとか間違っているという問題ではなくて、それぞれの流儀ということだと思っています。
ですからトマトベース=カスリメティには賛同できないというご意見もあろうかと思います。
そうなると「自分がおいしいと思うかどうか」というところに最終的にはいきつくのかと考えております。
イチローだって4割は打てないのだ。十軒入って三軒当たりなら「三割打者:高アベレージ」なのである。
tanabe-takeshi:
自分がこういう目に合うとは、全く思ってなかった。
正月早々、頭にきたので証拠も残しておく。
うちの母親が、妹夫婦とその子供の昼食に、上市町の「すし暦」で1万円の寿司を予約。
最初は配達してもらえる予定だったのに、あとでキャンセルされる。
で、とりにいくことになる。これがそもそものケチのつきはじめ。
1万円のセットだが、子供がいるのでサビ抜きにしてあった。

ところが、食べてみるとわさびが入っている。
これはおかしいとチェックしてみると、アナゴ以外すべてにわさびが入っている。
ここからが問題。サビ抜き忘れでもまともな商品だったら良かった。

…
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引用は以上、以下は私感です
勿論この店を弁護したり、被害にあった男性をクレーマーだなんて思わない
この店のやった事はまっとうな飲食店としては許されざる事だろう
だが、敢えて言おう
チ ェ ー ン 店 の ア ル バ イ ト 君 な ん て こ の 程 度 だ ぜ
当然アルバイト君がやった事とはいえ給金を払って雇っている以上、店の責任であることは明白だ
ただね、今世の中に存在する様々なフランチャイズ店で、全ての社員及びパートスタッフが完璧なモチベーションで完璧な仕事をしている所があったら教えて頂きたい
別にフランチャイズだからいい加減でも構わない、とかバイトがやった事だから仕様がないとか言いたい訳ではないよ。そう云う店を利用する以上、多少のリスクは覚悟すべしと言いたいだけ
私の画法は、「その時その場限り」というのが原則だ。昨日の自分と今の自分は別の人だと思っている。
富士山麓のススキヶ原に立って、富士山を描いている自分は二度とないのだ。その瞬間で終わりなのだ。
広大な青空である。雲のほかには何にもない。目の前に富士がある。一面のススキの原っぱ。ここに立っているだけでも不思議な気がする。最高の幸福感だ。きっと麻薬や覚醒剤なんて問題にならない幸福感だと思う。
さらにその場所で、絵を描いて3時間もいる。こんな幸福があるだろうか。
これは三浦半島から大海原を見ているときも同じだし、バラ園で花に囲まれているときも同じだ。アトリエで裸婦を描いているときも、もちろん幸福である。
絵の出来なんてどうでもよくなる。そこにいる。筆を動かしている。これが幸福なのだ。
俺も昔は「比較」していたが、最近はあまり意味がないと思っている。
上記のように「好み」つまり「相性」の良い店に行けばいいだけの話だからだ。
もちろん、そういう「通える店」を見つけるために、様々な店に伺う機会もあるだろうし、批評もする。
つまり店に通う最大の目的は、「客として楽しむため」であり「味の追求」をしている訳ではない。
俺は「フードライター(本当にロクな奴がいないな)」ではない。
結果として「楽しくなる」のは「旨い店」が多いだけであって、「旨い」だけで「楽しくない」という店も多い。
また旨くなくたって「楽しい」なら、俺はそちらを選ぶだろう。